山科義士まつりの歴史

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山科の歴史

山科は、洛東の地にあり、古くから奈良街道や東海道が通る交通の要衝でした。

縄文期から人々が生活し、区内には多くの遺跡が認められています。
天智天皇(626〜672)の御陵があるのはよく知られていますが、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化の改新を行った中臣鎌足が「陶原(すえはら)の館」と呼ばれる邸宅を建て、それが後に奈良に移され、現在の興福寺になったことも注目すべき史実です。

隨心院

平安時代の歌人、小野小町が居住していたという隨心院があり、深草少将の「百夜通い」の悲恋の物語もこの山科に語り継がれています。

また、『源氏物語』の作者、紫式部の4代前の祖先は、藤原高藤という内大臣で、山科に鷹狩りに来ていた折、雨宿りしたのが縁でその家の娘(列子)と結ばれました。その家が後に勧修寺となり、高藤と列子の娘胤子(いんし)は宇多天皇に嫁ぎ、醍醐天皇の生母となりました。

豊臣秀吉、徳川家康など、天下人が都を目指す時は、必ずこの山科を経由しました。江戸時代、都に入る参勤交替の行列は、山科で一旦休憩し、衣服を改めたともいわれています。

勧修寺
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人口の急増、地域コミュニティの変革

近年になっても山科は長い間、田園風景が広がるのどかな土地でした。

しかし、昭和30年代後半から40年代の高度成長期、急速に宅地開発が進められ、人口が急増しました。昭和30年に約3万5千人だった人口が昭和40年には6万4千人、昭和50年には13万6千人と10年間のスパンでほぼ倍増しています。

このような急激なまちの開発や人口増は、それまでの地域コミュニティに大きな変革を迫ることにもなりました。

S40年頃 東野井上町 中央が京都刑務所
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山科義士まつりの発足

「山科義士まつり」は、このような中、大石内蔵助良雄が浅野家再興に尽くしながら叶わず、吉良邸討ち入りを決意する間、京都・山科の地に隠棲した史実にちなみ、内蔵助と赤穂の義士たちをしのぶとともに、山科の住民と企業、行政が一体となり、地域の健全なコミュニティづくりのために連帯感を育成、高揚することを目的として、昭和49年から始められました。

S31・12・14 竹鼻竹の街道町 山科映画劇場前での義士まつりの一同
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山科義士まつりの特色

山科区全13学区の自治連合会と山科区地域女性連合会、山科経済同友会を中心とした山科義士まつり実行委員会では、毎年創意工夫を凝らし、手づくりのまつりを運営しています。

行列途中の舞台では、東映太秦映画村の協力を得て、「刃傷松の廊下」や「切腹」「連判状改め」「討ち入り」などの芝居が迫力いっぱいに展開されるほか、可愛らしい幼稚園児による子ども義士隊や女性陣による「大石音頭」、「元禄花見踊り」が華を添えます。

更に、まつり当日の写真を対象に「山科義士まつり写真コンクール」が実施され、勇壮な義士の行列や沿道のところどころで上げられる勇ましい勝どきもなかなかのシャッターチャンスとなっています。


「山科義士まつり」は、京都の年末を彩る風物詩として、関西はもとより、広く全国から多くの観光客の皆様にお越しいただくまつりに成長し、平成26年で第40回となりました。
ぜひ山科にお越しくださり、私たちとご一緒に、遠い日の赤穂義士の歴史に思いを馳せてください。

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