毘沙門堂
天台宗門跡寺院で毘沙門天をまつる。上京区出雲路にあったが、応仁の乱等で廃絶。その後、天海僧正が再興をはかり、安祥寺の寺地の一部を与えられ、弟子公海が寛文5年(1665)に完成させた。
本堂、唐門、仁王門、宸殿等門跡寺院の姿をよく残し、宸殿北側に広がる池泉回遊式庭園の晩翠園は、江戸初期の作庭と伝わる。
狩野洞雲筆の襖絵『九老の図』は、見る位置によって人物が動くように見える不思議な絵ということで有名。
春は樹齢百数十年を超える枝垂桜が、秋には全山の紅葉を求めて多くの人が訪れる。
この毘沙門堂門跡の公辧法親王は、赤穂浪士たちの処分について将軍綱吉に意見を求められ、「本懐を遂げた浪士を生き永らえさせて世俗の塵に汚すよりも、切腹させることによって尽忠の志を後世に残すべきである」とし、これによって綱吉は切腹を命じる決断をしたと伝えられる。
山科義士まつりの義士隊は、ここから出発する。
岩屋寺
曹洞宗永平寺派の寺院。大石内蔵助は、赤穂城退去後、赤穂藩士で山科出身の進藤源四郎の縁故によりここに家屋を建て、永住を装ったとされる。祇園や伏見で遊行にふけって世間の目を欺きながら、いよいよ仇討ちのために江戸へ出発するまでの1年余り、山科を一望できるこの景勝の地に過ごした。
境内には、内蔵助ら四十七士の木像や遺品、内蔵助の遺髪塚等があるほか、当時の屋敷の古材で作られた茶室が建つ。
山科義士まつりの行列は、ここで内蔵助や主税、遥泉院らが代表礼拝をした後、いよいよ最後の大石神社へと隊を進める。
大石神社
昭和10年(1935)、浪曲師・吉田奈良丸(大和之丞)の提唱に京都府と京都市が賛同し、大石内蔵助良雄をまつるため、内蔵助が隠棲した岩屋寺に近いこの地に創建された神社。
宝物殿には、討ち入り姿の義士を描いた『四十七士図屏風』や内蔵助直筆の書などが展示されている。
山科義士まつりの行列は、山科の北山麓の毘沙門堂を出発後、西南の大石神社を終着地として約6kmを練り歩く。まつり当日、参道には多くの屋台が出て賑わい、義士たちが到着すると勇ましい「エイ、エイ、オー」の勝どきが上げられる。